「もう生きられない、と心から思ったなら、死ぬしかないのか」

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今日の西洋思想史クラスは、
電通の過労死事件になった
高橋まつりさんのTwitter投稿から。

「もう生きられない、と心から思ったなら、死ぬしかないのか」

電通本社 夜10時に一斉消灯 過労死自殺受け | NHKニュース

重い話だけど、
印象深くて、
しっかり考えておきたいテーマだった。

なぜかというと、
似たような環境にいたから。

僕は結果的に死を選ばなかったけど、
「死んだら楽になれる」と思いながら生活していた。

ひょっとしたら自分も同じようなことになっていてもおかしくなかった。
(時期も社会人1〜2年目、苦しんでいた時期も重なっていた)

当時は何が辛かったかというと、
睡眠時間2〜3時間とかで毎日働いているのに
全然成果が出ず、叱責される。

「働かなくてもいいから結果を出してくれ」

と言われるけど、

「結果を出せないから、働いていた」

あとは上司に
「お前の残業はただ効率が悪いだけだけだから」
って残業代を承認されなかったのも懐かしい話。

そして営業目標が達成できないと、
深夜まで詰められて絶対に終わらない仕事量を根性で行動しろ!
みたいな感じになっていく。

そしてそんなの達成できないから
また仕事量が増えていく。
そして睡眠時間がなくなる。

そういうのがずっと続くから
やっぱり精神的にも病んでくるよね。

ちなみに同じ部署に3人配属されたけど、
残り2人は途中で肉体的に倒れた。

こういうニュースが出ると、
「死ぬくらいなら逃げたらいいのに」という意見が出てくるし、
僕もそう思うけど、当事者だと逃げることが選択肢に入らない。

当時は当たりまえだけど、
他の世界のことなんてほとんど知らない会社員。

目の前の仕事から逃げた人間が
転職して別の会社に行ったところで
うまくいくはずない。

苦しくても逃げずに
頑張って成果を出した人しか生きのこれない。

どっちみち死ぬなら前向いて死んだほうがマシ。

そんな感じのことを考えていたかな。

今思うと視野が狭いし、
外の世界を知らないのち勝手に決めつけていたし、
昔から追い込み癖があったと思うけど、
当時の自分にとっては精一杯だった。

が、今思うのは
「人が考えたルールには従わなくてもいい」
という選択肢を持った方が良いということ。

西洋思想史では
高橋さんの事件から、
フッサールの現象学、
形而上学を取り上げ、
生と死の間にあるものについて考察した。

フッサールは現象学的還元(エポケー)から、後に
現れる志向性、つまり精神作用全体を見つけることで
「個人的意味の集合体」として世界が記述できると考えた。

言葉は難しいけど、
「自分がどう感じたのか?」
「どう感じているのか?」
が自分の世界にとっての全てである、ということ。

今だって、あのころと同じくらい働いているけど、
そんなにつらいわけじゃない。

それは自分で大切なものを決めているし、
嫌ならその仕事をやらなくたっていい。

自分以外のルールで動いていて、
その人の評価で自分の価値が決まっているからつらい。

自分で大切にすることを決めて、
ちゃんと大切にし続けよう。

今日はこんなところで。

ではまた明日~!

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